HERITAGE RECORD

仏光寺

仏光寺は山西省五台県にあり、寺は「仏光」の瑞応にちなんで名付けられた。唐の大歴五年、法照はここで寺の南に数条の白光を遥かに望み、元和年間には「仏光寺の側らに慶雲現る」との奏報もあった。敦煌『五台山行記』はその大仏殿七間、弥勒閣三層七間を記す。会昌の廃仏の後、僧の願誠が「仏光寺を重ねて尋ね」、次第に新たに成した。今に残る東大殿はこの再建の遺物である。

時代
唐朝
地域
山西
LOCATION
山西省五台県
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仏光寺 - foguangsi old 01
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概要

仏光寺は五台山南台の外、台の西南四十里にあり、その寺名は一つの瑞応に由来する。『清凉山志』は「魏文帝、仏光の瑞を見、因りて名と為す」と説く。この「仏光」は虚しく設けられた名ではない。唐の大歴五年、僧の法照は光を辿って山に入り、まず「仏光寺の南に数条の白光を遥かに見」、夜にはまた一道の光が北山より来るのを見た。寺僧は「これ大聖不思議の光、常に有縁に答う」と答えた。元和十五年には、河東節度使の裴度がさらに「仏光寺の側らに慶雲現る」と朝廷に奏報した。名と光はこうして幾度も人に書き記された。

光のほかに、一座の唐代大寺の実体がある。敦煌『五台山行記』はそれを「大仏殿七間」「弥勒閣三層七間」と記し、さらに解脱和尚の真身塔と日々五百余僧に供する常住院があったとする。『宋高僧伝』は僧の法興がここに「三層七間の弥勒大閣を建て、高さ九十五尺」と説き、行記の見るところとまさに符合する。会昌の廃仏の中で、これらの殿閣は大半が倒れ毀たれ、ただ一座の祖師塔のみが幸いにも残った。その後の再建者が僧の願誠である。『宋高僧伝』は彼が大中年間に「仏光寺を重ねて尋ね」、寺が「已に荒頓に従う」有様であったので、そこで「発心して次第に新たに成す」と記す。今日寺中で最も重要な東大殿は、まさにこの再建の残したものである。

1937年6月、梁思成・林徽因・劉敦楨・莫宗江が仏光寺を調査測量した。梁思成『五台山仏光寺建築を記す』によれば、彼らは東大殿の梁下の題記「仏殿主 上都送供女弟子 寧公遇」を、殿前の石経幢上の字様と照らし合わせて、大殿が唐の大中十一年(857年)に建てられたと定めた——まさに願誠の再建の年代と合致する。

歴史文献

《五台山行記》

又到佛光寺,四十里宿。廿七日,夜见圣灯,一十八遍现。兼有大佛殿七间,中间三尊两面文殊普贤菩萨。弥勒阁三层七间,七十二贤、万菩萨、十六罗汉、解脱和尚真身塔、锁子骨和尚塔〔四〕,云

また仏光寺に到り、四十里の所に宿る。二十七日、夜に聖灯を見、十八遍現ず。あわせて大仏殿七間があり、中間には三尊、両面に文殊・普賢菩薩。弥勒閣は三層七間、七十二賢・万菩薩・十六羅漢・解脱和尚の真身塔・鎖子骨和尚の塔〔四〕があり、いう)

是文殊、普贤化现。常住院,大楼五间,上层是经藏,于下安众,日供僧五百余人。房廊殿宇更有数院,功德佛事极多,难可具载。

これは文殊・普賢の化現であると。常住院には大楼五間があり、上層は経蔵、下には衆を安んじ、日々に僧五百余人を供養する。房廊殿宇にはさらに数院あり、功徳の仏事は極めて多く、詳らかに載せがたい。)

《五台山行记》,英藏敦煌抄本 (『五台山行記』、英蔵敦煌写本)

《宋高僧伝》

释法兴,洛京人也。七岁出家,不参流俗。执巾提盥,罔惮勤苦。讽念法华,年周部帙。又诵净名经,匪逾九旬。戒律轨仪,有持无犯。来寻圣迹,乐止林泉,隶名佛光寺。节操孤颖,所沾利物,身不王持。付属门人,即修功德,建三层七间弥勒大阁,高九十五尺。尊像七十二位圣贤、八大龙王,罄从严饰。台山海众异舌同辞,请充山门都焉。盖从其统摄,规范准绳,和畅无争故也。大和二年春正月,闻空有声云:“入灭时至,兜率天众今来迎导。”于是洗浴焚香,端坐入灭。建塔于寺西北一里所。

釈法興は洛京の人である。七歳で出家し、流俗に交わらなかった。巾を執り盥を提げ、勤苦を厭わなかった。法華を諷念すること一年で全帙を周し、また浄名経を誦すること九旬を越えなかった。戒律の軌儀は、持つことあって犯すことなし。聖跡を尋ね来たり、林泉に止まるを楽しみ、仏光寺に名を隷す。節操は孤高に秀で、利益するところは、身をもって独占せず。門人に付属して功徳を修め、三層七間の弥勒大閣を建て、高さ九十五尺。尊像は七十二位の聖賢・八大龍王、ことごとく厳かに飾った。台山の海衆は舌を異にして辞を同じくし、山門の都維那に充てんことを請うた。けだしその統摂に従い、規範準縄あり、和暢にして争いなきゆえである。大和二年春正月、空に声ありて「入滅の時至る、兜率天の衆いま来たりて迎導す」と聞こえた。そこで洗浴焚香し、端坐して入滅した。寺の西北一里の所に塔を建てた。)

《宋高僧传》卷二十七“唐五台山佛光寺法兴传”,宋赞宁等撰,福州藏本 (『宋高僧伝』巻二十七「唐五台山仏光寺法興伝」、宋の賛寧ら撰、福州蔵本)

释愿诚,姓宋氏。望本西河,家袭素风,浚流远派,不扬胄绪,祖考不书。母阴氏夜梦庭树对发千花,余花寻谢,独结一果。乃觉有孕。母启愿心,得娠男子足矣。十月临蓐,果如其望,立字曰愿诚。后志存小字,不训法名者,遵慈母之意也。诚少慕空门,虽为官学生,已有息尘之志。迨栖金地,礼行严为师。严即儒宗珪璋,释氏师子也。一旦谓诚曰:“汝神情朗秀,宜于山中,精勤效节,可不务乎!”大和三年落发,五年具戒。先诵诸经,悉皆精练,行人属耳,道望日隆。无何,会昌中随例停留,唯诚志不动摇。及大中再崇释氏,选定僧员,诚独为首矣。遂乃重寻佛光寺。已从荒顿,发心次第新成。美声洋洋,闻于帝听,飙驰圣旨,云降紫衣。后李氏奄有并门,遐奉文殊,躬游圣地。睹其令范,抚手惬怀,表闻唐天子相继,乃赐大师号圆相也,就加山门都检校。光启三载,羞馔命僧舍衣投施。钟声引众,悉至斋堂,右胁曲肱,寂然长往。建塔树碑寺之西北一里也。

釈願誠は姓を宋氏という。望は本と西河、家は素風を襲ぎ、流れを浚え派を遠くするも、胄緒を揚げず、祖考を書さず。母の陰氏は夜に庭樹が相対して千花を発き、余花はやがて謝し、独り一果を結ぶ夢を見た。そこで孕みあることを覚った。母は願心を啓き、男子を娠せば足れりとした。十月臨蓐、果たしてその望みの如く、字を立てて願誠と曰う。後に小字を志に存し、法名を訓じなかったのは、慈母の意に遵ったのである。誠は少くして空門を慕い、官の学生であったが、すでに塵を息める志があった。金地に栖むに迨んで、行厳を礼して師とした。厳は儒宗の珪璋、釈氏の師子である。ある日、誠に謂いて曰く「汝の神情は朗秀、山中に宜し、精勤して節を効すこと、務めざるべけんや」と。大和三年に落髪し、五年に具戒した。先に諸経を誦し、ことごとく精練し、行人は耳を属け、道望は日々に隆んになった。ほどなく、会昌中に例に随いて停留したが、ただ誠のみ志は動揺しなかった。大中に再び釈氏を崇め、僧員を選定するに及んで、誠は独り首となった。そこで仏光寺を重ねて尋ねた。すでに荒頓に従い、発心して次第に新たに成した。美声は洋洋として、帝の聴に聞こえ、聖旨は飙のごとく馳せ、紫衣を雲のごとく降した。後に李氏が并門を奄有し、遥かに文殊を奉じ、躬から聖地に遊んだ。その令範を睹て、手を抚でて懐を惬とし、表して唐天子に聞こえること相継ぎ、そこで大師号の円相を賜い、山門都検校を加えた。光啓三載、羞饌して僧に命じ衣を舎てて投施した。鐘声で衆を引き、ことごとく斎堂に至り、右脇に肱を曲げて、寂然として長く往った。寺の西北一里に塔を建て碑を樹てた。)

《宋高僧传》卷二十七“唐五台山佛光寺愿诚传”,宋赞宁等撰,福州藏本 (『宋高僧伝』巻二十七「唐五台山仏光寺願誠伝」、宋の賛寧ら撰、福州蔵本)

则五年四月五日到五台县,遥见佛光寺南数道白光。六日到佛光寺,果如钵中所见,略无差脱。其夜四更,见一道光从北山下来射照。照忙入堂内,乃问众云:此何祥也?吉凶焉在?有僧答言:此大圣不思议光,常答有缘。照闻已,即具威仪,寻光至寺东北五十里间,果有山,山下有涧,涧北有一石门。见二青衣,可年八九岁,颜貌端正,立于门首,一称善财,二曰难陀。

かくて五年四月五日、五台県に到り、仏光寺の南に数条の白光を遥かに見た。六日に仏光寺に到ると、果たして鉢中に見たところの如く、ほとんど違いがなかった。その夜四更、一道の光が北山より下り来たりて射し照らすのを見た。照は忙てて堂内に入り、衆に問いて云う「これ何の祥ぞ、吉凶いずくにあるか」と。僧ありて答えて言う「これ大聖不思議の光、常に有縁に答う」と。照は聞き終えて、すぐに威儀を具え、光を尋ねて寺の東北五十里の間に至ると、果たして山があり、山下に澗があり、澗の北に一つの石門があった。二人の青衣を見ると、年は八、九歳ばかり、顔貌は端正で、門首に立ち、一を善財と称し、二を難陀と曰う。)

《宋高僧传》卷二十一“感通篇第六之四”“唐五台山竹林寺法照传”,宋赞宁等撰,四库全书本 (『宋高僧伝』巻二十一「感通篇第六之四」「唐五台山竹林寺法照伝」、宋の賛寧ら撰、四庫全書本)

《聞見後録》引く《唐穆宗実録》

五台山佛光,其传旧矣。唐穆宗实录:元和十五年四月四日,河东节度使裴度奏:五台山佛光寺侧庆云现,若金仙乘狻猊,领其徒千万,自己至申乃灭。又峨眉普贤寺光景殊胜,不下五台,在唐无闻。李太白峨眉山诗言仙而不言佛,华严经以普贤菩萨为主,李长者合论言五台山而不言峨眉山。又山中诸佛祠俱无唐刻石文字,疑特盛于本朝也。

五台山の仏光、その伝は旧い。『唐穆宗実録』にいう、元和十五年四月四日、河東節度使の裴度が奏す「五台山仏光寺の側らに慶雲現れ、金仙が狻猊に乗るがごとく、その徒千万を領し、巳より申に至りてすなわち滅す」と。また峨眉の普賢寺の光景は殊に勝れ、五台に劣らぬが、唐には聞こえがなかった。李太白の峨眉山の詩は仙を言いて仏を言わず、華厳経は普賢菩薩を主とし、李長者の合論は五台山を言いて峨眉山を言わない。また山中の諸仏祠にはみな唐の刻石文字がなく、思うに特にわが本朝に盛んになったのであろう。)

《闻见后录》卷二十八引《唐穆宗实录》,宋邵博撰,四库全书本 (『聞見後録』巻二十八 『唐穆宗実録』を引く、宋の邵博撰、四庫全書本)

《冊府元亀》裴度の奏を引く

穆宗以元和十五年正月即位。二月,河东节度使裴度奏:今月四日,五台山佛光寺侧庆云现,中有金人乘狻猊,领徒千万,如金仙状,自巳至申方灭。

穆宗は元和十五年正月に即位した。二月、河東節度使の裴度が奏す「今月四日、五台山仏光寺の側らに慶雲現れ、中に金人ありて狻猊に乗り、徒千万を領し、金仙の状のごとく、巳より申に至りてはじめて滅す」と。)

《册府元龟》卷五十二“崇释氏第二”,宋王钦若、杨亿等撰,四库全书本 (『冊府元亀』巻五十二「崇釈氏第二」、宋の王欽若・楊億ら撰、四庫全書本)

《清凉山志》

佛光寺、台西南四十里。魏文建,帝见佛光之瑞,因为名。唐解脱和尚于此藏修。参政王陶诗:五台山上白云浮,云散台空境自幽。历代珠幡县法界,累朝金刹列峰头。风雷激烈龙池夜,草木凄凉雁塞秋。世路茫茫名利者,尘机到此尽应休。

仏光寺、台の西南四十里。魏の文帝が建て、帝は仏光の瑞を見、因りて名と為した。唐の解脱和尚がここで蔵修した。参政の王陶の詩:五台山上に白雲浮かび、雲散じ台空しく境おのずから幽なり。歴代の珠幡は法界に県け、累朝の金刹は峰頭に列なる。風雷激烈たり龍池の夜、草木凄凉たり雁塞の秋。世路茫茫たる名利の者よ、塵機ここに到りてことごとく応に休むべし。)

《清凉山志》卷三“第四诸寺名迹”,明释镇澄选、清聚用校订 (『清凉山志』巻三「第四諸寺名迹」、明の釈鎮澄選、清の聚用校訂)

戊申,至佛光寺,主僧绍仝曰:此解脱禅师道场地,碑与龛存。因阅碑中所载解脱自解脱,文殊自文殊之语,喟然叹曰:真丈夫也。以偈赞曰:圣凡路上绝纤痕,解脱文殊各自论。东土西方无著处,佛光山下一龛存。

戊申、仏光寺に至ると、主僧の紹仝が曰く「これ解脱禅師の道場の地、碑と龕が存す」と。因りて碑中に載するところの「解脱おのずから解脱、文殊おのずから文殊」の語を閲し、喟然として嘆じて曰く「真の丈夫なり」と。偈をもって賛して曰く:聖凡の路上に纤痕を絶し、解脱と文殊おのおの自ら論ず。東土西方に著くる処なく、仏光山下に一龕存す。)

日已夕,见寺前庆云,紫润成蕊,问仝曰:此寺颇有灵迹否?何因何缘见此瑞气?仝曰:闻皇祐中尝有圣灯。

日すでに夕、寺前に慶雲を見ると、紫に潤いて蕊を成す。仝に問いて曰く「この寺に頗る霊迹ありや否や、何の因、何の縁ありてこの瑞気を見るか」と。仝が曰く「聞くならく皇祐中にかつて聖灯ありと」。)

《清凉山志》卷五“第六名公外护”,明释镇澄撰,清乾隆二十年刻本 (『清凉山志』巻五「第六名公外護」、明の釈鎮澄撰、清の乾隆二十年刻本)

古写真

1920年代から1930年代

1941年に出版された常盤大定・関野貞『中国文化史迹』第一輯は、仏光寺全景、殿内三尊像、中央釈迦如来、西方阿弥陀如来、寺前陀羅尼幢、殿後陀羅尼幢の旧影を収録する。下記の画像はすべて原図冊のページから写真の境界に沿って切り取ったもので、余白・図注・隣接する写真は残していない。

1930年代

1999年に整理出版された林洙編『中国古建築図典』第一巻は、梁思成らが撮影した仏光寺の画像を収録し、書内頁124-132に集中している。この整理本の写真群は、大殿の外観、斗栱と平闇、後壁の仏像、梁架、正脊の鴟尾、祖師塔、文殊殿、施主像などの細部を補っている。下記の画像は写真の境界に沿って切り取ったもので、測量図やページの題注は収めていない。