概要
光孝寺は広州城内で最も頻繁に名と主を変えた寺の一つである。もとは孫呉の虞翻が謫居した園圃で、世に虞苑・訶林と称された。宅を寺として施捨した後、東晋・梁武から唐宋に至るまで、代々勅封を受けた。唐の儀鳳年間、慧能はここで風幡を論じ、剃髪して受戒し、寺は「法性寺」の名で禅宗の系譜に入り、法才は彼のために瘞髪塔を建てて剃り落とした髪を納めた。名も身分も絶えず移り変わったが、寺内のそれらの実物——発塔・鉄塔・鐘——は一つひとつ残り続け、後人がこの寺を見分けるよりどころとなった。
寺内の東西二座の鉄塔はいずれも南漢に建てられた。西院の一座は内侍監の龔澄枢が大宝六年(癸亥)に鋳造したもの、東院の一座は劉鋹が大宝十年(丁卯)に勅造したもので、まる四年遅れており、銘文には「烏金鋳造」「七層、ならびに相輪蓮花座、高さ二丈二尺」と明記される。宋に入り、寺はかつて乾明禅院と改称されたが、咸平四年に鋳た鐘の落款はなお「広州法性寺」とあり、『南海県志』はこれに拠って改名の説を「伝聞の誤り」と断じ、なお「鐘刻を以て正と為す」べきとする。清代に至ると、この二座の鉄塔はまた金石家が繰り返し立ち返って見分ける対象となった。朱彝尊は早年には拓本しか見ておらず、二塔を一つに取り違えていたが、壬申の再遊で陳元孝が寺で食事に招き、寺僧に案内されて見に行き、ようやく「二塔並び立ちて一屋の中にあり、修短斉しからず、一は記を作り、一は名を題す」であることに気づいた。翁方綱はさらに実物に拠って、西塔は龔澄枢が先に自ら造ったもので、しかも宦官の所為であり、東塔の勅造とは性質が異なるゆえ、もとより「合して一と為すを得ず」と指摘した。
寺の用途もまた世事に従って再三変わった——『光孝寺志』によれば、清初に広州は兵乱を経て、寺はかつて兵営・貢院に転用された。民国に至ると、寺院にはすでに学校が進駐していた。常盤大定・関野貞『中国文化史迹』第三輯に収録された旧写真では、中門の門額に「広東法官学校」と記される。同組の写真にはさらに天王殿・大雄殿・殿前の南漢鉄塔・六祖発塔・菩提樹・西鉄塔も撮られている。
歴史文献
《粤游小識》
城西北隅有光孝寺,即孙吴时虞翻故苑,本尉佗元孙建德故宅。仲翔谪南海居此,废其宅为苑圃,多植苹婆、诃子,时人称为虞苑,又曰诃林。
城の西北隅に光孝寺があり、すなわち孫呉の時の虞翻の故苑で、もと尉佗の玄孫建徳の故宅である。仲翔は南海に謫せられてここに居し、その宅を廃して苑圃と為し、苹婆・訶子を多く植え、時人はこれを虞苑と称し、また訶林と曰った。
后人以翻未召还,遂谓翻卒于广,则殊失实。夫仲翔居广而再谪苍梧,东坡居惠而再谪海南,骨体不媚,古今同慨,而坡竟北还,则有幸有不幸耳。猛陵迢递,伤如之何?
後人は翻が召し還されなかったのを以て、翻は広で卒したと謂うが、それは甚だ実を失している。そもそも仲翔は広に居して再び蒼梧に謫せられ、東坡は恵に居して再び海南に謫せられた。骨体の媚びざるは古今同じく慨するところであるが、坡はついに北へ還った。すなわち幸あり不幸あるのみ。猛陵は遥かに遠く、傷むこといかんせん。
宅后施为寺,自东晋迄梁武,以及唐、宋间,无不封敕,故历代称大刹。其古迹见存者,有睡佛阁,唐神龙间建。瘗发塔,唐仪凤间建。叉有南汉二铁塔,其在东者,大宝十年丁卯岁造,在西者,大宝六年癸亥岁造。东塔雕刻盘龙,西首惟宝莲花,而高相等。两塔铭均载在阮翁志内,此不录之。
宅を後に寺として施し、東晋より梁武に迄び、および唐・宋の間、封勅せざるはなく、ゆえに歴代大刹と称された。その古跡の現存するものに、睡仏閣があり、唐の神龍年間の建立。瘞髪塔は唐の儀鳳年間の建立。また南漢の二鉄塔があり、東にあるものは大宝十年丁卯の歳に造られ、西にあるものは大宝六年癸亥の歳に造られた。東塔は盤龍を彫刻し、西のものはただ宝蓮花のみで、高さは相等しい。両塔の銘はいずれも阮翁の志の内に載るゆえ、ここには録さない。
袁瓌瑀宝璜。游诃林寺
袁瓌瑀宝璜。訶林寺に游ぶ
寺为虞仲翔故宅,云:逦迤城西。路,寻幽蜡屐停。五朝铁塔字,一卷石幢经。卧佛津梁倦,菩提劫后青。山僧不解语,避客掩禅扃。
寺は虞仲翔の故宅なり、云う:逦迤たり城の西。路にて、幽を尋ねて蝋屐停まる。五朝の鉄塔の字、一巻の石幢の経。臥仏は津梁に倦み、菩提は劫後に青し。山僧は語を解せず、客を避けて禅扃を掩う。
子默高州去,虞君亦海滨。故庐今卓锡,怀旧倍怆神。吊客凭千古,传经得解人。西溪遗记读,何处拜明禋。
子黙は高州へ去り、虞君もまた海浜。故廬に今卓錫し、旧を懐いて倍ます神を愴ましむ。弔客は千古に凭り、経を伝えて解する人を得たり。西溪の遺記を読めば、いずくにか明禋を拝せん。
谓曾宾谷记。
曾宾谷の記を謂う。
《全唐文》
光孝寺
光孝寺
瘗发塔记
瘞髪塔記
佛祖兴世,信非偶然。
仏祖の世に興るは、まことに偶然にあらず。
昔宋朝求那跋佗三藏建兹戒坛,预谶曰:“后当有肉身菩萨受戒于此。”梁天监元年,又有梵僧智药三藏航海而至,自西竺持来菩提树一株,植于戒坛前。
昔、宋朝の求那跋陀三蔵がこの戒壇を建て、あらかじめ讖して曰く「後にまさに肉身菩薩ありてここに受戒すべし」と。梁の天監元年、また梵僧の智薬三蔵が航海して至り、西竺より菩提樹一株を持ち来たり、戒壇の前に植えた。
立碑云:“吾过后一百六十年,当有肉身菩萨来此树下,开演上乘,度无量众,真传佛心印之法王也。”今能禅师正月八日抵此,因论风幡语,而与宗法师说无上道。
碑を立てて云う「吾が過ぎて後一百六十年、まさに肉身菩薩ありてこの樹下に来たり、上乗を開演し、無量の衆を度すべし、まことに仏心印を伝うる法王なり」と。今、能禅師は正月八日にここに抵り、風幡の語を論じたのを因として、宗法師と無上道を説いた。
宗踊跃忻庆,昔所未闻。
宗は踊躍して忻び慶び、昔いまだ聞かざるところなり。
遂诘得法端由,于十五日,普会四众,为师祝发。二月八日,集诸名德,受具足戒。
そこで得法の端由を詰ね、十五日に、あまねく四衆を会し、師のために祝髪した。二月八日、諸の名徳を集め、具足戒を受けた。
既而于菩提树下,开单传宗旨,一如昔谶。
かくして菩提樹の下に、単伝の宗旨を開くこと、一に昔の讖の如し。
法才遂募众缘,建兹浮屠,瘗禅师发。
法才はそこで衆縁を募り、この浮屠を建て、禅師の髪を瘞めた。
一旦落成,八面严洁,腾空七层,端如涌出。
ひとたび落成すると、八面厳浄、七層に騰空し、端として涌き出づるが如し。
伟欤禅师!
偉なるかな禅師よ。
法力之厚,弹指即遂,万古嘉猷,巍然不磨。
法力の厚きこと、弾指してすなわち遂げ、万古の嘉猷、巍然として磨せず。
聊叙梗概,以纪岁月云。
いささか梗概を叙し、以て歳月を紀すと云う。
仪凤元年岁次丙子吾佛生日,法性寺住持法才谨识。
儀鳳元年、歳は丙子に次る吾が仏の生日、法性寺住持法才謹んで識す。
《宋高僧伝》
就南海印宗法师《涅盘》盛集,论风旙之语,印宗辞屈而神伏,乃为其削椎髻于法性寺,智光律师边受满分戒,所登之坛即南宋朝求那跋摩三藏之所筑也。跋摩已登果位,悬记云:“后当有肉身菩萨于斯受戒。”又梁末真谛三藏于坛之畔手植菩提树,谓众曰:“种此后一百二十年,有开士于其下说无上乘,度无量众。”至是能爰宅于兹,果于树阴开东山法门,皆符前谶也。
南海の印宗法師の『涅槃』盛集に就き、風幡の語を論じたところ、印宗は辞に屈して神ながらに伏し、そこで彼のために法性寺で椎髻を削り、智光律師のもとで満分戒を受けた。登った壇はすなわち南宋朝の求那跋摩三蔵の築いたところである。跋摩はすでに果位に登り、懸記して云う「後にまさに肉身菩薩ありてここに受戒すべし」と。また梁末に真諦三蔵が壇の畔に手ずから菩提樹を植え、衆に謂いて曰く「これを種えて後一百二十年、開士ありてその下に無上乗を説き、無量の衆を度す」と。ここに至って能はここに宅し、果たして樹陰に東山法門を開き、みな前の讖に符合した。
《景徳伝灯録》
至仪凤元年丙子正月八日,届南海,遇印宗法师于法性寺讲涅盘经。师寓止廊庑闲,暮夜风飏刹幡,闻二僧对论,一云幡动,一云风动。往复酬答,曾未契理。师曰:“可容俗流辄预高论否?直以风幡非动,动自心耳。”印宗窃聆此语,竦然异之。翊日,邀师入室,征风幡之义。师具以理告。印宗不觉起立云:“行者定非常人,师为是谁?”师更无所隐,直叙得法因由。于是印宗执弟子之礼,请受禅要。乃告四众曰:“印宗具足凡夫,今遇肉身菩萨。”即指坐下卢居士云:“即此是也。”因请出所传信衣,悉令瞻礼。至正月十五日,会诸名德,为之剃发。二月八日,就法性寺智光律师受满分戒。其戒坛即宋朝求那跋陀三藏之所置也。三藏记云:“后当有肉身菩萨在此坛受戒。”又梁末真谛三藏于坛之侧,手植二菩提树,谓众曰:“却后一百二十年,有大开士于此树下演无上乘,度无量众。”师具戒已,于此树下开东山法门,宛如宿契。
儀鳳元年丙子正月八日に至り、南海に届き、印宗法師に法性寺で涅槃経を講ずるところに遇った。師は廊廡の間に寓止したが、暮夜に風が刹幡を飄し、二僧の対論を聞くに、一は幡動くと云い、一は風動くと云う。往復して酬答したが、いまだ理に契わなかった。師曰く「俗流がにわかに高論に与かるを容すべきや。ただ風も幡も動くにあらず、動くは心よりのみ」と。印宗はひそかにこの語を聆き、竦然としてこれを異とした。翌日、師を室に邀え、風幡の義を征した。師はつぶさに理を以て告げた。印宗は覚えず起立して云う「行者は定めて常人にあらず、師はこれ誰ぞ」と。師はさらに隠すところなく、得法の因由を直叙した。ここにおいて印宗は弟子の礼を執り、禅要を受けんことを請うた。そこで四衆に告げて曰く「印宗は具足の凡夫、今、肉身菩薩に遇う」と。すなわち坐下の盧居士を指して云う「すなわちこれなり」と。因って伝うるところの信衣を出さしめ、ことごとく瞻礼させた。正月十五日に至り、諸の名徳を会し、これがために剃髪した。二月八日、法性寺の智光律師に就いて満分戒を受けた。その戒壇はすなわち宋朝の求那跋陀三蔵の置いたところである。三蔵記して云う「後にまさに肉身菩薩ありてこの壇に受戒すべし」と。また梁末に真諦三蔵が壇の側に、手ずから二菩提樹を植え、衆に謂いて曰く「却後一百二十年、大開士ありてこの樹下に無上乗を演べ、無量の衆を度す」と。師は具戒し已わって、この樹下に東山法門を開き、あたかも宿契の如くであった。
《南海県志》
光孝寺咸平钟款
光孝寺咸平鐘款
弟子口季迁同慈母李氏、二十一娘口口口口口婆珠等,敬口口钟壹口,重铜卷百觔,奉为亡室周氏口娘迢荐去识生界,以设斋庆𧷙讫,舍沙门义明,永充供养。谨题
弟子□季遷、慈母李氏・二十一娘□□□□□婆珠らと同じく、敬んで□□鐘一□を□し、重さは銅巻百觔、亡室周氏□娘のために設けて生界を薦度し、斎を設けて慶讃し訖わり、沙門義明に舎して、永く供養に充つ。謹んで題す
临坛比丘义明,舍铜钟一口,重叁百觔,于广州法性寺大佛殿内悬挂,永充常住。二时声击。时大宋咸平四年,岁次辛丑九月一日已已朔七日乙亥,殿主表白传律临坛宗志大师曹亮记
臨壇比丘義明、銅鐘一口を舎す、重さ三百觔、広州法性寺の大仏殿内に懸挂し、永く常住に充つ。二時に声撃す。時に大宋咸平四年、歳は辛丑に次る九月一日己巳朔七日乙亥、殿主表白伝律臨壇宗志大師曹亮記す
按钟在广州光孝寺,款一,行书,一正书,笔意可观。曝书亭集与景云观钟并称,所谓法性寺钟铭者,即此是也。旧志云:法性寺宋太祖改各乾明禅院。据此钟刻于真宗咸平,犹以法性称,则旧志云云,传闻之误耳。当以钟刻为正。
按ずるに鐘は広州光孝寺にあり、款は一は行書、一は正書、筆意見るべし。曝書亭集は景雲観の鐘とならび称し、いわゆる法性寺鐘銘とはすなわちこれである。旧志に云う、法性寺は宋の太祖が改めて乾明禅院と各づけたと。この鐘が真宗の咸平に刻され、なお法性を以て称するに拠れば、旧志の云々は伝聞の誤りにすぎない。まさに鐘刻を以て正と為すべし。
《粤東金石略》
光孝寺铁塔识
光孝寺鉄塔識
广州光孝寺有二铁塔,其在东院者,以黄金涂之,南汉主刘录所造。塔下一层识云:大汉皇帝以大宝十奉丁岁,敕有同用乌金铸造千佛宝塔一座,七层,并相莲花座,高二丈二尺,保龙有庆,祈凤历无疆。万方咸于清平,八表永承于交泰。□浚善□三有,福被四息,以四乾德节设斋庆赞。谨记。其南面之左云:内殿大僧录、教中大法师、金紫光禄、捡拔工部尚书晓真大师沙门臣右云教中大法师、内供奉讲经首座金紫夫、捡校工部尚书宝法大师沙门臣其余数面款文皆不可拓。据志北面之左云:毅中大法师、内供奉、金紫光禄大夫、捡校工部尚书绍喜大法师沙门监造。右云:教中大法师、金紫光禄大夫、捡校工部尚书了闻沙门监造。东面之左云:都监住持秀华宫使、上将军、上柱国□伯、食邑十万户□□监造
広州の光孝寺に二鉄塔があり、東院にあるものは黄金でこれを塗り、南漢主劉鋹の造るところである。塔の下層に識して云う「大漢皇帝、大宝十□丁の歳を以て、有司に敕して烏金を用いて千仏宝塔一座を鋳造す、七層、ならびに相輪蓮花座、高さ二丈二尺、龍を保ちて慶あり、鳳暦の無疆を祈る。万方はことごとく清平に□し、八表は永く交泰を承く。□善を浚えて三有に□し、福は四恩に被り、四月の乾徳節を以て斎を設けて慶讃す。謹んで記す」と。その南面の左に云う「内殿大僧録・教中大法師・金紫光禄・検校工部尚書暁真大師沙門臣」、右に云う「教中大法師・内供奉講経首座金紫夫・検校工部尚書宝法大師沙門臣」、その余の数面の款文はみな拓すべからず。志に拠れば北面の左に云う「毅中大法師・内供奉・金紫光禄大夫・検校工部尚書紹喜大法師沙門監造」、右に云う「教中大法師・金紫光禄大夫・検校工部尚書了聞沙門監造」、東面の左に云う「都監住持秀華宮使・上将軍・上柱国□伯・食邑十万戸□□監造」
。寺西院又有千佛铁塔,其识云:玉清宫使、德陵使、龙德宫使、开府仪同三司、行内侍监、上柱国龚澄枢,同女弟子邓氏三十二娘,以大宝六年岁次癸亥五月壬子翔十七戊辰铸造,永充供养
。寺の西院にはまた千仏鉄塔があり、その識に云う「玉清宮使・徳陵使・龍徳宮使・開府儀同三司・行内侍監・上柱国龔澄枢、女弟子鄧氏三十二娘と同じく、大宝六年歳は癸亥に次る五月壬子朔十七戊辰を以て鋳造し、永く供養に充つ」
。两塔高大略相等,东塔较高。朱竹垞谓见二塔并立一屋中,修短不齐,一作祀,一题名,始悟曩时拓本合二为一,记之不详,疑未得其实也。又谓其列名皆官者,今观其列名皆沙门监造,而宦者惟龚澄枢一人。且其塔乃澄枢自造,又在𬬮所造之前,亦不得合为一也。
。両塔の高大はおおよそ相等しく、東塔がやや高い。朱竹垞は二塔並び立ちて一屋の中にあり、修短斉しからず、一は記を作り、一は名を題すを見て、はじめて曩時の拓本が二を合して一と為し、これを記すること詳らかならざるを悟り、いまだその実を得ざるを疑った、と謂う。またその列名はみな官の者と謂うが、今その列名を観るにみな沙門の監造で、宦者はただ龔澄枢一人のみである。しかもその塔は龔澄枢が自ら造ったもので、また劉鋹の造るところの前にあり、これもまた合して一と為すを得ない。
又按竹垞书铁塔铭后,记刘䶮冢碑事,与王文𫈉皇华纪闻所载,颇有错互。余甲申秋将出都时,钱享楣学士。首以此托为考订。比抵粤,访诸官吏与土人,问其所谓北亭者,在番禺城东二十里许,而刘䶮之冢与碑,则竟无知者。盖二先生亦皆非得自亲睹,所以传写或有讹失。即如竹垞所记,系光天元年,而文𫈉则疑光天无五年,而所据载者乃作五年。又卢应下文简所记是初字,广东新语所记是敕字,俱无奉字,而竹垞所记则多一奉字,安知初字非即敕字之误乎?竹垞称陈元孝语予云,则是竹垞既得自口传,而元孝复幽记忆,无怪乎王、朱两先生之传闻异词矣
また按ずるに、竹垞が鉄塔銘の後に書して、劉䶮の冢碑の事を記すのは、王文簡『皇華紀聞』の載するところと、かなり錯互がある。余は甲申の秋、都を出でんとした時、銭享楣学士がまずこれを以て考訂を託した。粤に抵るに及んで、諸の官吏と土人を訪ね、いわゆる北亭なるものを問うに、番禺城の東二十里ばかりにあったが、劉䶮の冢と碑については、ついに知る者がなかった。けだし二先生もまたみな親しく睹たものではなく、それゆえ伝写に或いは訛失がある。たとえば竹垞の記すところは光天元年に係けるが、文簡は光天に五年なきを疑いつつ、拠って載せるところはかえって五年と作る。また盧応は、文簡の記すところは「初」の字、『広東新語』の記すところは「敕」の字で、ともに「奉」の字がないが、竹垞の記すところは「奉」の字が一つ多い。「初」の字がすなわち「敕」の字の誤りでないと、いずくんぞ知らんや。竹垞は陳元孝が予に語りて云うと称するが、すなわち竹垞はすでに口伝より得たもので、元孝もまた記憶が朧げであった。王・朱の両先生の伝聞に異なる詞あるも怪しむに足りない。
《金石文字跋尾》
广州光孝寺铁塔记跋呜呼,僭窃之主,未有愚于刘𬬮者也。
広州光孝寺鉄塔記跋。ああ、僭窃の主に、劉鋹より愚かなる者はいまだない。
谓群臣有家室,顾子孙惟宦者可信,不知其植党纳贿更甚焉。铁塔建自大宝十年,凡七层,合相轮莲花座,崇二丈有二尺。观其列名,皆宦者也。当其时,𬬮又范铜为己像,并肖诸子,列于天庆观,而今已亡之。盖金石刻之传于世,金之用博,故其铄也易。以予所见,自唐以来,惟景云观法性寺二钟铭及是塔记而已。若晋祠铁人,铸自宋建中靖国年,则其文在胸突出,难以摹搨,盖款识不同,变前人之旧矣。
群臣には家室ありとして、ただ子孫は宦者のみ信ずべしと顧みたが、その党を植え賄を納むることのさらに甚だしきを知らなかった。鉄塔は大宝十年に建てられ、およそ七層、相輪蓮花座を合わせ、高さ二丈二尺。その列名を観るに、みな宦者である。その時に当たって、劉鋹はまた銅を范して己の像と為し、あわせて諸子を肖り、天慶観に列したが、今はすでにこれを亡った。けだし金石の刻の世に伝わるは、金の用が博いゆえ、その鑠くるもまた易い。予の見るところを以てすれば、唐以来、ただ景雲観・法性寺の二鐘銘およびこの塔記のみである。晋祠の鉄人のごときは、宋の建中靖国年に鋳られ、その文は胸に突出して、摹搨しがたい。けだし款識が同じからず、前人の旧を変えたのである。
续书光孝寺铁塔铭后:岁在壬申,重游岭表。改岁正月,南海陈元孝饭予光孝寺,南汉之兴王寺也。寺僧导主客诣刘𬬮所铸铁塔所在,见二塔并立一屋中,修短不齐,一作记,一题名,始悟曩时拓本合二为一,记之不详。元孝语予,南汉主刘龚,葬番禺县治东二十里北亭。明崇祯丙子秋九月,穴中有鸡鸣。土人发其墓,隧道崇五尺,深三尺,有金像十二,一冕而坐,一笄而坐,殆马后也。夹侍十人,疑是诸子。又学士十八,以白金镕铸,其他珍异物甚伙。有碑一具,书翰林学士、知制诰、正议大夫、尚书右丞、上紫金袋臣卢应奉敕撰。文曰:维大有十五年,岁次壬寅,四月甲寅朔廿四日丁丑,高祖天皇大帝崩于正寝,越光天元年正月癸未朔十四日丙申,迁神于康陵,礼也。云云。
続けて光孝寺鉄塔銘の後に書す。歳は壬申に在り、重ねて嶺表に游ぶ。歳を改めた正月、南海の陳元孝が予を光孝寺に饗した。南漢の興王寺である。寺僧は主客を導いて劉鋹の鋳た鉄塔の在る所に詣で、二塔が並び立ちて一屋の中にあり、修短斉しからず、一は記を作り、一は名を題すを見て、はじめて曩時の拓本が二を合して一と為し、これを記すること詳らかならざるを悟った。元孝が予に語る、南漢主劉龔は番禺県治の東二十里の北亭に葬られた、と。明の崇禎丙子の秋九月、穴中に鶏鳴あり。土人がその墓を発くに、隧道は高さ五尺、深さ三尺、金像十二あり、一は冕して坐し、一は笄して坐す、おそらく馬后であろう。夾侍十人、諸子かと疑う。また学士十八、白金を以て鎔鋳し、その他の珍異の物ははなはだ多い。碑一具あり、翰林学士・知制誥・正議大夫・尚書右丞・上紫金袋臣盧応が勅を奉じて撰すと書す。文に曰く「維れ大有十五年、歳は壬寅に次る、四月甲寅朔廿四日丁丑、高祖天皇大帝正寝に崩じ、光天元年正月癸未朔十四日丙申を越えて、神を康陵に遷す、礼なり」と。云々。
子方注五代史,衰年健忘,遂牵连书于前册。亡友仁和吴志伊撰十国春秋,卢应更作膺,谓事龚为工部侍郎,大有中加太尉,中宗时拜中书侍郎、同平章事,衔名不合,惜其已逝,未得此异闻也。
予はまさに五代史に注しており、衰年で健忘、そこで牽連して前の册に書した。亡友仁和の呉志伊が『十国春秋』を撰したが、盧応をさらに「膺」と作り、龔に事えて工部侍郎となり、大有中に太尉を加え、中宗の時に中書侍郎・同平章事を拝したと謂うが、衔名が合わない。その已に逝したのを惜しむ。この異聞を得られなかった。
《広州府志》
西铁塔铭:
西鉄塔銘:
卢迦郍佛释迦佛,玉清宫使、德口口口囗宫使、开府仪同三口囗内侍监口口国龚囗口同女弟子囗口口口口,以大謽六年口口口亥五月壬子朔,口口
盧迦郍仏・釈迦仏、玉清宮使・徳□□□□宮使・開府儀同三□□内侍監□□国龔□□、女弟子□□□□と同じく、大宝六年□□□亥五月壬子朔を以て、□□
口铸造口囗囗入缘,弟子内给事都监韶州梁口鄂
□鋳造□□□縁に入り、弟子内給事都監韶州梁□鄂
卢舍郍佛弥口佛,玉清宫使、德陵使、口口
盧舎郍仏・弥□仏、玉清宮使・徳陵使・□□
宫使、口府仪同、三口口内侍口口口国、口口口同,女弟子口口三十二口,以大宝口口岁次癸口五月壬子朔,口囗口口辰,铸造口囗口口入缘,弟子内给事都监。韶州梁延鄂曰毗口口佛药师佛,玉清宫使、德陵使、龙口宫使、开府仪同三司,口内侍监、上柱国龚口囗同女弟子。囗氏三十一口,以大宝六年岁次口亥,五月壬子朔,十七曰口辰,铸造永口口口入缘弟子内给事都监囗州梁延鄂口口佛弥勒佛、玉清宫使、德陵使、龙德宫使、开府仪同三司、行丙侍监、上柱国龚澄枢同女弟子邓氏三十二娘,以大宝六年岁次癸亥,五月壬子朔,十七曰戊辰铸造,永充供养入缘弟子内口口口口口口延鄂
宮使・□府儀同・三□□内侍□□□国・□□□と同じく、女弟子□□三十二□、大宝□□歳は癸□に次る五月壬子朔を以て、□□□□辰、鋳造し□□□□縁に入る、弟子内給事都監。韶州梁延鄂。毗□□仏・薬師仏、玉清宮使・徳陵使・龍□宮使・開府儀同三司・□内侍監・上柱国龔□と、女弟子□氏三十一□と同じく、大宝六年歳は□亥に次る、五月壬子朔、十七日□辰を以て、鋳造し永く□□□縁に入る、弟子内給事都監□州梁延鄂。□□仏・弥勒仏、玉清宮使・徳陵使・龍徳宮使・開府儀同三司・行内侍監・上柱国龔澄枢と、女弟子鄧氏三十二娘と同じく、大宝六年歳は癸亥に次る、五月壬子朔、十七日戊辰を以て鋳造し、永く供養に充つ縁に入る弟子内□□□□□□延鄂。
口弟子刘军口。
□弟子劉軍□。
岁在壬申,重游岭表。改岁正月,南海陈元孝饭千光孝寺,南海之兴王寺也。寺僧导主客,谓刘𬬮所铸铁塔所在。见一塔并立一屋中,修短不齐,一作记,一题名,始悟曩时拓本合二为一,记之不详。元孝语予南汉主刘袭葬番禺县治东二十里北亭,明崇祯丙子秋九月,穴中有鸡鸣。土人发其墓,隧道崇五尺,深三尺,有金像十一,一冕而坐,一笄而坐,殆马后也。夹侍十人,疑是诸子。又学士十八,以白金镕铸,其他珍异物甚伙。有碑一具,书翰林学士、知制诰、正议大夫、尚书右丞、上紫金袋臣卢应奉敕撰。文曰:维大有十五年,岁次壬寅,四月甲寅朔,念四曰丁丑,高祖天皇大帝崩于正寝,越光天元年五月癸未朔十四日丙申,迁神于康陵,礼也。云云。子方注五代史,衰年健忘,遂牵连书于前册。亡友仁和吴志伊撰十国春秋,卢应更作膺,谓事䶮为工部侍郎,大有中加太尉,中宗时拜中书侍郎、同平章事,衔名不合,惜其已逝,未得此异闻也。
歳は壬申に在り、重ねて嶺表に游ぶ。歳を改めた正月、南海の陳元孝が予を光孝寺に饗した。南海の興王寺である。寺僧は主客を導いて、劉鋹の鋳た鉄塔の在る所を謂う。二塔が並び立ちて一屋の中にあり、修短斉しからず、一は記を作り、一は名を題すを見て、はじめて曩時の拓本が二を合して一と為し、これを記すること詳らかならざるを悟った。元孝が予に語る、南漢主劉龔は番禺県治の東二十里の北亭に葬られた、と。明の崇禎丙子の秋九月、穴中に鶏鳴あり。土人がその墓を発くに、隧道は高さ五尺、深さ三尺、金像十一あり、一は冕して坐し、一は笄して坐す、おそらく馬后であろう。夾侍十人、諸子かと疑う。また学士十八、白金を以て鎔鋳し、その他の珍異の物ははなはだ多い。碑一具あり、翰林学士・知制誥・正議大夫・尚書右丞・上紫金袋臣盧応が勅を奉じて撰すと書す。文に曰く「維れ大有十五年、歳は壬寅に次る、四月甲寅朔、念四日丁丑、高祖天皇大帝正寝に崩じ、光天元年五月癸未朔十四日丙申を越えて、神を康陵に遷す、礼なり」と。云々。予はまさに五代史に注しており、衰年で健忘、そこで牽連して前の册に書した。亡友仁和の呉志伊が『十国春秋』を撰したが、盧応をさらに「膺」と作り、䶮に事えて工部侍郎となり、大有中に太尉を加え、中宗の時に中書侍郎・同平章事を拝したと謂うが、衔名が合わない。その已に逝したのを惜しむ。この異聞を得られなかった。
右龚澄枢造铁塔在广州光孝寺,文凡七行,世所传者,惟西一面文。乾隆甲午夏,益都李文藻素伯谛观。东南北三面铁绣,中隐现有字,募人锥出搨之,文皆与西面同,而每行字数有多寡,盖非一箔也。素伯又为文记塔之形制云:塔自趺以上,高丈有九尺六寸。石趺四重,刻狮兽,铁趺四重,一作瓦檐形,二作龙戏,五珠缩其地廉外为四人首戴,第三重,如赑㞒状。三重亦刻花纹。四重周作莲花,四面各阔四尺六寸,为瓣九,中瓣刻文于上。自莲花瓣以上,凡七层,以次而狭,皆铸佛像。最上阔不过二尺,又为莲花顶,每层大佛一,众小佛环之。每面七层,计二百五十佛,四之则千佛矣。下二层,佛旁有字,梯而视之,弟一层,东曰释迦佛,西曰弥勒佛,南曰弥陀佛,北曰药师佛。药师佛者,释家谓之功德佛,其造塔者自况乎。第二层,东卢遮那佛,南卢舍那佛,西牟尼佛,北毗舍浮佛。它佛名皆刻佛左,而此独刻佛右。塔顶似有字,势甚危,不可梯也。
右の龔澄枢の造った鉄塔は広州光孝寺にあり、文はおよそ七行、世に伝わるのは、ただ西一面の文のみである。乾隆甲午の夏、益都の李文藻素伯がつぶさに観た。東・南・北の三面は鉄錆で、中に字が隠れ現れており、人を募って錐で掘り出して搨したところ、文はみな西面と同じであったが、行ごとに字数に多寡があり、けだし一箔ではない。素伯はまた文を作って塔の形制を記して云う。塔は趺より上、高さ一丈九尺六寸。石趺は四重、獅獣を刻し、鉄趺は四重、一は瓦檐の形を作し、二は龍戯を作し、五珠はその地廉外を縮めて四人が首に戴くと為し、第三重は赑屓の状の如し。三重にもまた花紋を刻す。四重は周りに蓮花を作し、四面各々幅四尺六寸、瓣を九と為し、中瓣に文をその上に刻す。蓮花の瓣より上、およそ七層、順を追って狭くなり、みな仏像を鋳す。最上は幅二尺に過ぎず、また蓮花の頂と為し、層ごとに大仏一、衆の小仏がこれを環る。面ごとに七層、二百五十仏を計え、これを四倍すればすなわち千仏である。下二層、仏の傍らに字あり、梯を掛けてこれを視るに、第一層は、東に釈迦仏と曰い、西に弥勒仏と曰い、南に弥陀仏と曰い、北に薬師仏と曰う。薬師仏は、釈家これを功徳仏と謂う、その塔を造る者が自ら況えたのであろうか。第二層は、東に盧遮那仏、南に盧舎那仏、西に牟尼仏、北に毗舎浮仏。他の仏名はみな仏の左に刻すが、これのみは独り仏の右に刻す。塔頂に字あるに似るが、勢いはなはだ危うく、梯を掛けられない。
塔在广州光孝寺之西院。唐六典:内侍省:内侍四人,从四品上。新唐书百官志:内侍省:监二人,从三品。内侍四人,从四品。注云:龙朔二年,改监为省。天賮十三年,置内侍监,则唐自天宝后称内侍监。五代会要:后唐同光元年,以左监门卫将军判内侍省李绍宏兼内局,则后唐已复修省。要之,南汉承唐、梁之制,内侍省有监内侍,而未尝称其官为内侍监,当以此塔题衔为据。宋史通鉴及十国春秋称澄枢为内侍省,似并误。又旧唐书职官志:武德令:职事解散欠一阶不至为兼职事卑者不解散官。贞观令:以职事高者为守,职事卑者为行,仍各带散。位,其欠一阶,依旧为兼,与当阶者皆解散官。则澄枢初以知承宣院兼内侍监遁州厂,见卷力
塔は広州光孝寺の西院にある。『唐六典』に、内侍省は内侍四人、従四品上。『新唐書』百官志に、内侍省は監二人、従三品。内侍四人、従四品。注に云う、龍朔二年、監を改めて省と為す。天宝十三年、内侍監を置く、すなわち唐は天宝以後内侍監と称す。『五代会要』に、後唐の同光元年、左監門衛将軍判内侍省の李紹宏を以て内局を兼ねしむ、すなわち後唐はすでに復た省を修む。要するに、南漢は唐・梁の制を承け、内侍省に監・内侍あるも、いまだその官を内侍監と称したことはなく、まさにこの塔の題衔を以て拠と為すべし。『宋史』『通鑑』および『十国春秋』が澄枢を内侍省と称するのは、ともに誤りかと思われる。また『旧唐書』職官志、武徳令に、職事は散官を解し、一階を欠きて至らざるは兼と為し、職事の卑き者は散官を解せず。貞観令に、職事の高き者を以て守と為し、職事の卑き者を行と為し、なお各々散位を帯ぶ。その一階を欠くは、旧に依りて兼と為し、当階の者とともにみな散官を解す。すなわち澄枢は初め知承宣院を以て内侍監遁州厂を兼ねた、巻力に見ゆ
。后又以开封府仪同三司行内侍监,传乃误监为省,又漏其后一官,并略其勋上柱国耳。塔款又载入缘弟子梁延鄂,史传无考。其题衔称内给事都监。按六典百官志,内给事从五品,无都监之名。十国春秋百官表亦不载,当据此以补其缺。塔顶为莲花形,无字。李文藻之言,臆说也。
。後にまた開府儀同三司行内侍監を以てしたが、伝はそこで監を誤って省と為し、またその後の一官を漏らし、あわせてその勲の上柱国を略しただけである。塔款にはまた縁に入る弟子梁延鄂を載せるが、史伝に考なし。その題衔は内給事都監と称す。『六典』百官志を按ずるに、内給事は従五品、都監の名なし。『十国春秋』百官表にもまた載せず、まさにこれに拠ってその欠を補うべし。塔頂は蓮花形で、字なし。李文藻の言は、臆説である。
东铁塔记:大汉皇帝以大宝十年丁口岁,敕有司用乌金铸造千佛宝塔壹所,七层,并相口莲花座,高二丈二尺。保龙口有庆,祈凤历无疆。万方咸使于清平,八表永承于交泰,然后善资三有,福被四恩。以四月乾德节设斋庆赞。谨记。囗口口口口囗口口口军容口口口口口阳宫使秀囗口口囗华宫使口囗口囗口囗使言瘴囗口口番点检口口口上将军行丙口口囗囗一开国伯,食邑七百户口口口口口教中大法师内囗口监口口口口口口口大夫、检校工部尚书囗法师沙口臣口口教中大法口口口囗口囗囗囗口口口口大夫、检校口部尚书口口口囗沙门臣口口教中大法师内供奉讲经首座金紫口口口夫、检校工部尚书宝法大师沙门臣口口内殿大僧录教中大法师金紫光禄口口、检校工部尚书晓真大师沙门臣道
東鉄塔記:大漢皇帝、大宝十年丁□の歳を以て、有司に敕して烏金を用いて千仏宝塔一所を鋳造す、七層、ならびに相輪蓮花座、高さ二丈二尺。龍を保ちて□慶あり、鳳暦の無疆を祈る。万方はことごとく清平に使し、八表は永く交泰を承け、然る後に善は三有に資し、福は四恩に被る。四月の乾徳節を以て斎を設けて慶讃す。謹んで記す。□□□□□□□□□軍容□□□□□陽宮使秀□□□□華宮使□□□□□□使言瘴□□□番点検□□□上将軍行内□□□□一開国伯・食邑七百戸□□□□□教中大法師内□□監□□□□□□□大夫・検校工部尚書□法師沙□臣□□教中大法□□□□□□□□□□□□大夫・検校□部尚書□□□□沙門臣□□教中大法師内供奉講経首座金紫□□□夫・検校工部尚書宝法大師沙門臣□□内殿大僧録教中大法師金紫光禄□□・検校工部尚書暁真大師沙門臣道
右造千佛宝塔记,在光孝寺之东院,寺僧以灰填其文,而涂金于外,谓之金塔记。在塔之西面,凡八行。其北面东隅题名二行,西隅题名三行,东面南隅题名二行,西隅题名。三行,东面南隅题名二行。西面两隅及东西之北隅,皆无刻交。予所藏者李素伯手榻之本,视他家特为完善。寺之西有龚澄枢所造铁塔,先于此塔四年,亦非奉敕所造。朱锡鬯谓刘𬬮所铸二塔并立一屋中,一作记,一题名者,误也。此塔题名六人,惟所谓宫使者,似是内侍之职,余皆沙门尔。朱以为皆宦者,亦误。
右の千仏宝塔を造るの記は、光孝寺の東院にあり、寺僧は灰を以てその文を填め、外に金を塗り、これを金塔記と謂う。塔の西面にあり、およそ八行。その北面の東隅に題名二行、西隅に題名三行、東面の南隅に題名二行、西隅に題名三行、東面の南隅に題名二行。西面の両隅および東西の北隅は、みな刻文なし。予の蔵するところは李素伯の手搨の本で、他家に比してとくに完善である。寺の西に龔澄枢の造った鉄塔があり、この塔より四年先で、また勅を奉じて造ったものではない。朱錫鬯が劉鋹の鋳た二塔が並び立ちて一屋の中にあり、一は記を作り、一は名を題すと謂うのは、誤りである。この塔の題名は六人、ただいわゆる宮使なる者は、内侍の職かと思われ、余はみな沙門にすぎない。朱がみな宦者と為すのも、また誤りである。
铁塔建自大宝十年,凡七层,合相轮莲花座,崇二丈有二尺。观其列名,皆宦者也。当其时,银又范铜为已像,并肖诸子列于天庆观,而今已亡之。盖金石刻之传于世,金之用博,故其铄也易。以予所见,自唐以来,惟景云观、法性寺二钟铭及是塔记而已。
鉄塔は大宝十年に建てられ、およそ七層、相輪蓮花座を合わせ、高さ二丈二尺。その列名を観るに、みな宦者である。その時に当たって、劉鋹はまた銅を范して己の像と為し、あわせて諸子を肖り天慶観に列したが、今はすでにこれを亡った。けだし金石の刻の世に伝わるは、金の用が博いゆえ、その鑠くるもまた易い。予の見るところを以てすれば、唐以来、ただ景雲観・法性寺の二鐘銘およびこの塔記のみである。
广州光孝寺有二铁塔,其在东院者,以黄金涂之,南汉主刘𬬮所造。寺西院又有千佛铁塔,两塔高大略相等,东塔较高。朱竹埋谓见二塔并立一屋中,修短不齐,一作记,一题名,始悟曩时拓本合二为一,记之不详,疑未得其实也。又谓其列名皆宦者,今观其列名,皆沙门监造,而宦者惟龚澄枢一人,且其塔乃澄枢自造,又在𬬮所造之前,亦不得合为一也。
広州の光孝寺に二鉄塔があり、東院にあるものは黄金でこれを塗り、南漢主劉鋹の造るところである。寺の西院にはまた千仏鉄塔があり、両塔の高大はおおよそ相等しく、東塔がやや高い。朱竹垞は二塔並び立ちて一屋の中にあり、修短斉しからず、一は記を作り、一は名を題すを見て、はじめて曩時の拓本が二を合して一と為し、これを記すること詳らかならざるを悟り、いまだその実を得ざるを疑った、と謂う。またその列名はみな宦者と謂うが、今その列名を観るにみな沙門の監造で、宦者はただ龔澄枢一人のみ、しかもその塔は龔澄枢が自ら造ったもので、また劉鋹の造るところの前にあり、これもまた合して一と為すを得ない。
塔在广州光孝寺之东院,盖后主敕有司所造也。纪年丁下阙一字、卯字也。记后题名磨灭过半。然审视南面东隅所书官阶,其成文可读,有所谓秀华宫使者、将军者、食邑七百户者,其残阙之字,有所谓阳宫使者、使宫闱者、番检点者。考宋史及十国春秋李托传:中宗袭位,选内侍省充宫闱诸卫押番,兼秀华宫使。后主立,改玩华宫使、内侍监。列圣、景阳二宫使。又乳源大宝七年碑,结衔亦称列圣宫使、甘泉宫使、秀华宫使、玩华宫使、开府仪同三司、行内侍监、上柱国李托,并与此塔所书官名略同。然则监造者即托也。阳宫上缺景字,宫闱下番点检上缺诸卫押三字,均可据十国春秋后主纪及托传以补之。至托传不载其封爵食邑,则又据塔款以补其缺矣。
塔は広州光孝寺の東院にあり、けだし後主が有司に敕して造らせたものである。紀年の「丁」の下に一字を欠く、「卯」の字である。記の後の題名は磨滅すること過半。しかし南面の東隅に書す官階を審視するに、その成文は読むべく、いわゆる秀華宮使なる者・将軍なる者・食邑七百戸なる者があり、その残欠の字には、いわゆる陽宮使なる者・使宮闈なる者・番検点なる者がある。『宋史』および『十国春秋』李托伝を考えるに、中宗が位を襲ぐや、内侍省を選びて宮闈諸衛押番に充て、秀華宮使を兼ねた。後主が立つや、玩華宮使・内侍監・列聖・景陽二宮使に改めた。また乳源の大宝七年碑、結衔もまた列聖宮使・甘泉宮使・秀華宮使・玩華宮使・開府儀同三司・行内侍監・上柱国李托と称し、ともにこの塔の書す官名とほぼ同じである。しからばすなわち監造者はすなわち李托である。「陽宮」の上に「景」の字を欠き、「宮闈」の下・「番点検」の上に「諸衛押」の三字を欠くが、いずれも『十国春秋』後主紀および李托伝に拠ってこれを補える。李托伝がその封爵食邑を載せないに至っては、また塔款に拠ってその欠を補う。
右塔铭后题衔,通志与金石萃编互异,今据拓本著录。旧志丁下是卯字,相下是轮字,龙下是躬字,今已缺使。旧志作底,则误也。题名多剥蚀,南面东隅所书官阶,有军容字,阳宫使、秀字,华宫使使字,使宫闱字,番检点字,上将军行内字,开国伯、食邑七百户字。考宋史李托传:中宗袭位,选内侍省充宫闱诸卫押番,兼秀华宫便。后主立,改玩华宫使、丙侍监、列圣、景阳二宫使。云𨳌山碑李托书衔称列圣宫使、甘泉宫使、秀华宫使、玩华宫使、开府仪同三司、行内侍监、上柱国,并与此结衔相合。通志谓监造者即托,是也。阳宫上缺景字,秀下缺华宫使、玩四字,宫闱下番点检上缺诸卫押三字,行内下缺侍监一字,均可据宋史托传以补之。其封爵食邑,则托传所未及也。沙门题衔者四人,臣字下名皆剥落,惟北面西喁臣下有道字可辨。旧志臣下皆作监造二字,非也。
右の塔銘の後の題衔は、『通志』と『金石萃編』とで互いに異なり、今拓本に拠って著録する。旧志では「丁」の下は「卯」の字、「相」の下は「輪」の字、「龍」の下は「躬」の字、今すでに「使」を欠く。旧志が「底」と作すのは、誤りである。題名は剥蝕が多く、南面の東隅に書す官階には、「軍容」の字、「陽宮使」・「秀」の字、「華宮使使」の字、「使宮闈」の字、「番検点」の字、「上将軍行内」の字、「開国伯・食邑七百戸」の字がある。『宋史』李托伝を考えるに、中宗が位を襲ぐや、内侍省を選びて宮闈諸衛押番に充て、秀華宮使を兼ねた。後主が立つや、玩華宮使・内侍監・列聖・景陽二宮使に改めた。雲門山碑では李托の書衔は列聖宮使・甘泉宮使・秀華宮使・玩華宮使・開府儀同三司・行内侍監・上柱国と称し、ともにこの結衔と相合する。『通志』が監造者はすなわち李托と謂うのは、正しい。「陽宮」の上に「景」の字を欠き、「秀」の下に「華宮使・玩」の四字を欠き、「宮闈」の下・「番点検」の上に「諸衛押」の三字を欠き、「行内」の下に「侍監」の一字を欠くが、いずれも『宋史』李托伝に拠ってこれを補える。その封爵食邑は、李托伝の未だ及ばざるところである。沙門の題衔なる者は四人、「臣」の字の下の名はみな剥落し、ただ北面の西隅の「臣」の下に「道」の字ありて弁ずべし。旧志が「臣」の下をみな「監造」の二字と作すのは、非である。
《池北偶談》
光孝寺铁塔文
光孝寺鉄塔文
广州府光孝寺有铁塔一,乃刘鋹所造。上有文曰:大汉皇帝以大宝十年丁卯岁,敕有司乌金铸造千佛宝塔一所,七层,并相轮莲花座,高二丈二尺。保龙阙有庆,祈凤历无疆。万方咸底于清平,八表永承于交泰。善资三有,福被四恩。以四月乾德节设斋庆赞,谨记。后列中官姓名,予广州游览小志别详之。
広州府の光孝寺に鉄塔一あり、すなわち劉鋹の造るところである。上に文ありて曰く「大漢皇帝、大宝十年丁卯の歳を以て、有司に敕して烏金もて千仏宝塔一所を鋳造す、七層、ならびに相輪蓮花座、高さ二丈二尺。龍を保ちて慶あり、鳳暦の無疆を祈る。万方はことごとく清平に底り、八表は永く交泰を承く。善は三有に資し、福は四恩に被る。四月の乾徳節を以て斎を設けて慶讃す、謹んで記す」と。後に中官の姓名を列す、予は広州游覧小志に別にこれを詳らかにした。
《広東新語》
六祖发塔
六祖髪塔
六祖发塔,在广州光孝寺佛殿后。六祖初剃度时,其徒为藏发于此,盖发冢也。佛以肤发为垢浊,委而去之,顾乃作塔以藏之,使人见而瞻礼,是犹有我相在也,失其旨矣。
六祖髪塔は、広州光孝寺の仏殿の後にある。六祖が初めて剃度した時、その徒が彼のために髪をここに蔵めた、けだし髪の冢である。仏は肌髪を垢濁と為し、これを委てて去るものであるが、かえって塔を作ってこれを蔵め、人に見せて瞻礼させるのは、なお我相の在るものであり、その旨を失している。
古写真
1900年
常盤大定・関野貞『中国文化史迹』第三輯に収録された光孝寺大雄殿の旧写真で、図注には明治三十三年の撮影と注記される。

1910年
『中国文化史迹』第三輯に収める六祖発塔の旧写真の一つで、図注には明治四十三年の撮影と注記される。

1928年
『中国文化史迹』第三輯に収める光孝寺の旧写真。そのうち中門の旧写真には「広東法官学校」の門額が見える。





関連資料
- 羅香林『広州光孝寺唐代悲心陀羅尼経幢考』、『広東文物特輯』1949年第1巻。台大仏学数位図書館
- 古正美『広州光孝寺二鉄塔的建造性質』、『田野与文献:華南研究資料中心通訊』2009年第57期。項目、PDF
- 陳鴻鈞『広州光孝寺南漢東西二鉄塔銘考釈』、『嶺南文史』2012年第2期。PDF
- 程建軍『広州光孝寺大雄宝殿大木結構研究』、『華南理工大学学報(自然科学版)』1997年。Architectura Sinica 項目
- 顧光修・何淙纂『光孝寺志』、乾隆年間成書、民国二十四年広東編印局重刊本。DILA 仏寺志
- 『文物春秋』関連の精査:光孝寺の専題は今のところ検出されず。台大仏学数位図書館「陀羅尼経幢」検索ページを同類項目の入口とすることができる。検索ページ